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Visual Café シリーズ 第3回「負ける映像」2/2pict

2013.02.15

山崎
 感想でも構いませんので、参加者の方にも直接聞いてみましょう。

参加者D
 「他者依存」は私が申し上げたのですが、映像とは基本的に他者への依存であると言うのが自明的な問題で、絶対的に避けることができない。
 なぜなら、映像と言うのは被写体があってなるものと考えると、その勝ち負けというのは何かしらルールがあるものでないと、言葉が成立しないと思うんですね。
 例えば、個人の中で勝ったと思っても、私から見たら負けたと思うこともあるかもしれない。ルールをまず考えないと「負ける映像」という言葉が成り立たないのではないかと疑問に感じました。

●負けるためのルール

参加者E
 勝ち負けっていうのは映像の概念だったんですね。
 僕は映像のことを全くよくわからないのだけど、意図するものが撮れていれば勝ちだし、撮れてなかったら負けだとかいうことなんだよね?あちらの方も言っていたけど、フレームアウトしていったり、うまくコントロールできなかったり、それでその撮った映像が負けたとかそういうことなんだよね?

津田
 負けるというのは稚拙なことと定義した場合に、今回の映像はもしかしたら両方とも稚拙であったかもしれませが、高度に負けるという例もあると思います。
 一輪の花を撮ろうとしとき、アマチュアで多いのは真ん中で綺麗に撮れている写真が多いんです。記録としての活用できる写真という話がありましたが、そういった撮り方は、記録や思い出としては良いと思いますが、花の美しさは撮れていないかもしれない。
 花へのリスペクトがあった時に、ちょっとブレたり、あるいは下から撮ってみたり、そう言った意味でテクニカルに負けるという事態が起こると思います。
 ここで考えて頂きたいのは、自分だったらドバイに行ったらどんな風に撮るだろうか?ということ。どうやったらドバイが素晴らしく見えて、自分なんてどうだっていいみたいな世界が撮れるか。
東工大の方は、理系的な発想だけではなくて、モノの質感や怖さみたいな部分を撮っていたのは良いです。ただ、まだ作為性が残っているので、例えば津波のような本当にモノが怖い...モノが怖いという所まで、自分たちが技術的に・意識的に負けることが出来るかが重要な表現の一つだと思います。

●自分が作品に込めた想い

参加者E
 花の話がありましたが、結局ドバイの瞳という作品にしろ、なんでも本人の反応だと思うんですよね。
 例えば花だったらメイプルソープがあの様なライティングで撮って、全くひっくり返った訳ですよね。それまでの花の撮り方も、人の撮り方も。
 それは技術的なことだけど、メイプルソープがイメージしたものを自分の技術を使って表現しているわけだから、東工大にしても、そういう自分の反応が明確に出てくれば、技術的に拙くても伝わってくると思うんです。
 この前ある大学で卒業制作の審査員をやったんですが、少しホームシックになってた留学生が自分の地元を撮影した作品を観たんです。その作品では立体映像というやつで、すごく面白かったんです。彼の視点で地元の街を撮っていて、それが伝わってくる訳です。日本に何年か居て、地元を想っている気持ちが出ていて。
 作品としてはつまんなかったので、卒業制作だったら、来場者にそのまま同じセットで撮影して、会場で撮ってますよって感じにすれば、「今の反応」とか「思っている事」とかが出てきて良いと思ったんです。
 作品を作るというのは、いかに自分の視点が「こういうふうに見たら怖いよね」とか、「自分が何に反応したか」「自分のこだわってる所」とかを表現することが大事なんじゃないかな。
 ドバイの瞳は、政治とか状況とかじゃなくて、自分の置かれている感じをどう伝えようか試みていた作品だから、気楽に楽しく見れたと思うんです。
 2本目の東工大の方は、コンセプトとテーマにちょっと寄りかかり過ぎちゃったかなって。
 例えば、大学の研究室の冷蔵庫にカメラ入れといて、半年間冷蔵庫を開ける映像をずっと撮る。それを800秒ぐらいにギュッと圧縮したら、バタバタ開けて、時々覗く人がいたり、何かが入ったりとか...そうすると「何が撮りたかったんだ」っていうのが自分の言葉になって、「東工大の〇〇ゼミの冷蔵庫が何を見ているか僕は知りたかったんです!」って言えば非常に強い作品なると思う。東工大の映像は「何を見せたいか」とか「自分の気持ち・反応」とかそういった部分が希薄だったと思います。

津田
 色々な撮り方、在り方を具体的に提示していただき、ありがとうございます。
 私としては、優れた映像というのはどこかで作家が消えてないといけないと思います。作家の自我が強く画面に刻印されている画や映像などは、エゴイッシュな作品でストーリーが見えてしまい、見る前からわかっちゃうものが多いんです。
 例えばドバイの瞳は、今のトレンドな映画ですけども、シリアスに撮ることは本当にできたけれど、わざと撮ってなくて、現代の映像によくあるパターンです。東工大の方は、もっと人間が消滅してもよかったのではないかと思います。

 色々意見があると思いますが、これ一つのきっかけとしていただきまして、またこういうカフェ形式のイベントに来ていただければと思います。ご来場ありがとございました。

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