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Creative Café 写真というブラックボックス --よい写真とは-- 3/3pict

2012.02.10

山崎:それでは各グループでどの様な話が出たかテーブルファシリテーターの方お願いします。

G1:一番面白かった意見が「被写体に対して愛がない」ですね。被写体に対して本当に愛がないのか推し量れないけれど、見る人を騙そうとする写真であるという話がありました。実は好きな被写体であるけれど、手法として意味を打ち消し、意味を持たせないようにしているのではないかと。
「自分でも撮れそうだけど、撮れない」という、そのすれすれのバランス感みたいなのが、良さの一つではないかという意見もありました。

G2:こちらで話題になったのは、畑さんの写真はどこか不安定な感じがするということです。被写体は機械、パイプ、シリンダーやネジなど、それぞれ意味をもつ秩序だったものであるにもかかわらず、構図や撮り方が何となく無秩序で作為性がないように感じます。また、機械の一部分の写真が、昨年の3.11の原発にシンクロし、何か特別な感情をみんなに抱かせるのではないか、といったことが話題として挙がりました。

G3:このグループのトッピックをわかり易く伝えると抽象画という言葉が合っているかなと思います。並べられた複数の写真でも一枚の写真であっても、中に何があるのだろうかと、その内面的なものを見ようとしますが、その写真に主体性が無かったり、意図しないところで写真が撮られていると、より抽象的な視点で物事を捉えることができ、様々な人に様々な印象を抱かせます。実験機器の近くで撮影したら、もっと違う効果が出てくるのではないか、といった話しもありました。

G4:「この写真がいい」というのは、そもそも感情であって、美しいというのは、調和や黄金比といったことで、それを混ぜこぜにしているのではないか、「よい」と「美しい」ということを同じとして見ていいのか、という話からスタートしました。「よい」というものは感情あったり視点であることで、「美しい」というのは見た中での構図や調和ではないかという議論に進み、畑さんの場合はこの両方がうまく融合しているんじゃないかという意見も出ました。
また、私たち自身が自分の目で見た時の印象と写真を通してみた時の印象には決定的な違いがあって、それはピントやフォーカスの違いが、普段であれば見逃してしまいそうなものを魅力的に見せる要素になるのではないかと。そして畑さんに関する多くの意見が「普通の視点じゃないよね。」という事でした。

山崎:各グループから出た意見や要約したメッセージから、畑さんと野原先生に気になるトピックを選んでお話を伺いたいと思います。

●愛のない写真

野原:まず私が気になるのは「愛がない」と「愛がないとことさらに見せている」ですね。(笑)先日この個展を見に来た時に、これらの写真をご覧になった方が「撮っている人が写真から遠い」とか「距離がある」とか、「愛がない」に近いことを仰っていました。畑さん自身としてはどう思いますか?

:最初はかっこいいと思って撮っているのだけど、何か特定のものがかっこいいとは思っていないですね。「ここ」じゃなくて「このへん」がかっこいいみたいな感じで撮っています。愛って意味はわからないけど、やっぱりいなと思ったから撮ってるんですよ。

山崎:畑さんの話で、ファインダーを覗かないで撮ると言うのが面白かったのですが、ある部分を撮っているときは、もう視線は次の面白いものを探しているんですよね?

:デジタルなので連射しながら歩いて撮って、取りながら次の面白そうなものを探すって感じでした。

野原:先生たちが一生懸命説明してる研究室を案内している身としては辛い瞬間でした。(笑)すごくどうでもよさそうに撮影しているみたいに見えるじゃないですか。

●間接的に向けられたカメラ

山崎:野原先生の研究に関連するのはどのような部分でしょうか?

野原:私の研究は所謂人文なので、畑さんがカメラを向けることはないのですが、間接的に向けられているかんじがしたのは、先程少し話しにあがった翻訳理論に関してですね。記号の一部でもあるのですが、色々なものを色々なものに変換するので、何もかもがコードになりうるんです。
私のような文系の人間が東工大にやってきた当初は、あらゆる研究室のもがアートでした。何だかよくわからないけれど、面白かったり綺麗だったり、胸に残るもので、胸を打つ何かを感じました。でも私はアーティストではないので、それから何かを表現することはできないけれど、畑さんの作品を見たときに私が感じたアートの一部がそこに表現されていました。
私が研究しているのは翻訳論ですが、何かを何かに変換すると言うことを、まさにアーティストがそれをやってくれたので、間接的にカメラを向けてくれているのかなという感じがしました。

:確かに僕も今回撮影してて、このコードとか線とか、色の組み合わせや物の配置が構成だけに変わっていくような感じがしたんですよね。例えば、アブストラクトのドローイングのようなものに変換されていくんです。だから、同じ場所を何十枚連射でして撮っても。いつもいい写真は「あ、これ」ってすぐにわかる。何十枚の中か選んでも「これはいい」とわかるのは自分でも不思議なんだけど、写真言語というか、ここにいる状態がいいみたいなことなのかな。

野原:それは暗黙知ですけど、やっぱりいいと思う写真が、何かを表したり、語ったりとかする、体系みたいなものがきっとできつつあるんですよね。説明は難しいかもしれないけれど、体系があるってことは、やはり科学的に何かがあるのではないか、と考えてしまうんですね。

●言葉と写真言語

M:僕も写真家なんですが、翻訳などに興味があって、演劇と写真をどうやって交換、翻訳できるかということを考えています。文章があってり記憶になって、それが人を動かしたり、人になんらかの影響を与えるのと同様に、写真も写真言語によって、人や何かに影響を与える事が可能だと思います。しかし言語ほど共通なものが写真言語にはなくて、1枚の写真を見せても、それが「あ」とか「い」とか誰もが一様に理解できないけれど、これはこの様に影響を与えるとか、共通して理論立てることはできると思っています。ただそれは、まさに写真言語であるから、普通の言語ではもしかすると表現できないかもしれませんが。

野原:CreativeFlow内で議論していた時に出てきた話でもあるんですが、科学の用語や言語は厳密性を追求しますよね。曖昧であると危険が生じたりしてしまうので、誰が使っても同じであることが求められるわけですが、写真言語は辞書がないからざっくりしたものになりますよね。
東工大で撮影を行なっていて、畑さんは、科学とか科学技術に対して「少し考えが変わってきた」みたいなことを言っていましたが、その辺りについて聞かせてもらえますか?

●科学と写真

:さっきも話したみたいに、僕は研究室に行って「早く写真だけを撮らせてよ」と思うのだけど、1時間くらい説明をされるっていう経験を何十回も繰り返すうちに、科学のことが全然わからない僕にも、科学というのは、過去の知識を蓄積して、その肩まで登ってそこからジャンプすることで新しい発見を繰り返しているんだなと思ったんです。
それは写真やアートでも同じで、過去の作品や時代を勉強して、肩まで登ってジャンプすると、自分のオリジナルというか、新しい地点に行けるという点で、共通する部分があるなと思いました。

津田:CreativeFlowの津田です。以前行った光カフェで写真家の方が、光より影の方が重要だと力説されたんですが、その発言が全体の進行からすると浮いていたんです。しかし、その発言がクリエイティブ・ジャンプになっていまして、思考回路がいい意味で脱線されて良かったのですが、本日も同様に、秩序立ったものが、無秩序の方にいい意味で脱線させていきながら、ある種の今の時代のリアリティズムを獲得しているように思います。
畑さんは、経済も科学分野でもあらゆるものがギリギリで稼動している、そんな時代性みたいなものを、アーティストとして直感的に読み取っている一人なのかと思っています。
言語学でカオスモスという、秩序と無秩序のせめぎ合いの部分は面白いと思いますし、写真言語という一般の我々が使用している第一次言語ではなくて、その下にある、なかなか言葉にできない第二次言語と呼ばれる部分について、今、話し合われていて、非常に現代的な捉えかたになっていると思いました。

●記号と写真の違い
松川:先ほど写真家の方が発言されたことについて、疑問があるのですが、ある非常口のようなマークを見た時に、皆が非常口のマークだと決めたから非常口だと思うのか、みんなが逃げるように思うから、逃げるように思ったのかということを疑問に感じました。写真を見て、一時的に「こうだ」と決め付けることと、記号マークを見て「こうだ」と決め付けるのは、一体何が違うのでしょうか。

M:写真と記号は全然違います。まず写真を撮るときは、意図して「これを撮りたい」「この瞬間を撮りたい」と撮影するけれど、実際は服のシワだったり汚れだったり周りのものも全てが写ってしまいます。一方記号とかアニメーションと言うものは、全て人為的に描かれたものです。写真はそんな描かれていない、無意識の部分から来るものがよしとされる部分があるから、その様な意味で全然違うものになります。

松川:つまり記号を写真で撮った場合は、もともとの記号の意味から離れるということですね。

R:写真は自分の感情などを通じて評価するのに対し、記号は感情などを必要とせずに評価するので、明らかに違うものだと私は思います。

●写真におけるダイナミズム

S:記号の話とは少し離れますが、私はブルースとかジャズなどの音楽が好きなんです。それと一方で自然にも興味があるんですが、その2つには共通点が結構あるんです。ジャズとかブルースと言うのは旋律がきちっと音楽のルールに従ってあって、一見でたらめに聞こえるアドリブも、慣れてくるとでたらめに聞こえるものも、だんだん意味をもって聞こえてきます。一方自然界も、地震などはいつ起こるかわからないし、何が起こるかわからないでたらめさと法則性をもちあわせていて、この秩序と無秩序のダイナミズムが共通の要素ではないかと思います。そういった意味で、畑さんの作品を拝見すると、ガラクタ的な要素を強調して写してあってリズム感を感じる面白い写真があるんですね。畑さんが歩きながら「パッ、パッ」と撮影する写し方によってもリズム感に繋がる部分があるという印象を受けました。

●Pelletron new no.4

野原:個展のタイトルに使われているPelletronについて説明してください。

A:核反応の実験を行うために、粒子を高速でぶつける必要があるのですが、その際に高電圧をかけて粒子を加速させて衝突させるための装置(加速器)です。

:これをタイトルにした理由は、この加速器を見に行ったとき、教授がもっていた手帳に「Pelletron new no.4」と書いてあったんです。それを見た時に「あっ、いただき」と思いました。(笑)
さっき秩序の話が出ていましたが、装置としての意味がある場所、本当は装置としての意味があったら、その装置を撮影すればよいんですが、僕はそうじゃない場所にぐっときてる訳です。そのチグハグな感じがすごく面白いし、まさにそうだと何となく思ったんです。

野原:Pelletronそのものは大きな装置で、大きな研究が進められる訳で、一般の人が加速器の実験を見ると最先端の研究だと思います。でも写真を見た先生が、今日本ではお金がつかなくなってる分野で、実は最先端ではないと面白いことを言ったんですね。その証拠に写真を見ると、あちこちガムテープとかよくわからないひもとかで、色々な部分を縛ってあったりするんです。そういった社会のひずみとか、リアリティみたいなものを、畑さん自身も気付かないうちに社会的に写し出しているのかなと思います。その部分に気付く人がいたら気付くし、あるいは気付かなくても、そこにポテンシャルがある訳ですから、写真というコードが何かをもっているというのは、すごく面白い話だなと思います。

●アーティストにメッセージはない

山崎:では最期に何かメッセージがありましたらどうぞ。

:このイベントを行おうと思ったのは、最初に写真を科学的に解明するのはたぶんできないという思いがあったのですが、しかしあえてそう言った試みを行うことで、たぶん問題の大きさがわかると感じたからです。これまでの話を聞いた時や東工大で話をするたびに、少し何かがわかる、そうするとまた階段ちょっと上がった感じがする。写真には様々な種類があって、様々な見方がある、科学的な見方に挑戦することで一歩進める感じがいいなと思ったんです。

津田:アーティストというのは、基本的にメッセージは持っていないと思っています。我々にメッセージを伝えたいという意思は持っていないと。もしそうであったら、言葉に書いて伝えればよく、それはアーティストではないと。ただメッセージは持っていませんが、あるチャレンジをする事によって、我々にメッセージではない何かを伝えようとしているのではないでしょうか。端的に言えばディスコミュニケーションを恐れずにあるものを伝えようとする種族だと思っています。一方で我々観客の方は、そのメッセージのないものに対してメッセージをつくる権利があるということですね。
本日我々が行ったことは、畑さんの写真を解剖したとかそういったことではなく、我々が感じたものをどうやって自分のものにしたかということです。
今社会で問われているのは、特に科学やさまざまな分野のものが社会の中でどの様に位置づけられているかということです。メッセージなきメッセージを受け取り、自己編集を行いながら、自分自身をどの様に位置付け、どの様な行動をとるか、ということが今問われています。
作家がイメージのない、メッセージのないものを言うのが半分、一方観客がそれに対して自分たちの解釈をつくり世界が構成されると言いましたが、まさに今日はそんな半分と半分が合わさった良いカフェだったと思います。

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