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Creative Café アーキテクチャシリーズ 第1回 汚しうる美 stainable beauty 1/2pict

2010.09.29

田中稔郎
京都大学工学部土木工学科在学中からアジア、アフリカの発展途上国を中心に20カ国以上を旅する。ゼネコンに就職後、ニューヨーク州立大学へ留学し、建築を学び、グリッドフレームという建築のシステム材を考案。1998年6月にグリッドフレームを設立。研究途中のシステム材で家具や衝立をつくって販売しながら、次第に独自の方法により店舗などの空間全体をつくる会社に成長する。現在までに、250件以上の設計施工実績がある。

27カ国を旅する
stainable1.jpg田中:今日はどうもありがとうございます。私は、グリッドフレームという内装空間をつくる会社の代表です。
津田:田中さんは学生時代、いろんな国を旅行されていますね。
田中:はい、27カ国、アジア、アフリカなど欧米ではない国がほとんどです。将来そこでダムとか橋とかをつくりたいと思ったのですが、私は元来虫が嫌いで、果たして本当にそこで暮らせるのか、と事前に確かめたかったんです。ケニアでは、蚊に1回刺されると足が2倍ぐらいに膨れ上がるような体験をしました。でも行ってみれば意外にどんなことも平気でした。
 モロッコのフェズっていう町の裏通りで「迷宮」と呼ばれる場所は、風化して壁が崩れていたり、いろんなものが朽ちていたりするんですが、そのような環境はそこにいる人に「こうしろ」という命令をしない感じがして居心地がよかったです。私は、こういったものを切り取って、美しいと感じて見るんです。
津田:これを見て、美しいと感じられる方は? 
:私も、錆とかすごく好きで、見ただけで歴史を感じて、奥深さをすごく感じます。
:私は反対です。雨風にさらされてとか、人が傷ついているんじゃないかとかを想像して、美しいとは思いませんね。

汚しうる美
田中:そこで「汚しうる美」っていうものについて考え始めました。まず、「汚しうる美」の反対として「汚せない美」っていうのがあると思うのです。「汚せない美」は、たとえば美術館の絵がそうです。触れてはいけない、もちろんその表面を壊してもいけない、そういう美のあり方だと思います。一方、私がここでタイトルにした「汚しうる美」っていうのは、実際に汚しうるんです。
I:こういう「汚しうる美」が自分の世界の外にあるぶんには構わないんですけど、自分の内側にあるものだったら、「いつかこの野郎、ぶっ殺してやるぞ」みたいに思います(笑)
津田:人間心理の面白いところですよね。内面の汚れと外面の「汚しうる美」をどうとらえるか。
stainable2.jpg田中:秩序が、無秩序を感じ、それを受け入れるための秩序が必要で、それが「汚しうる美」ではないでしょうか。バルセロナの旧市街に一つのアパートがあります。これも半分壊された状態で、普通に生活が営まれている場所です。これはバルセロナがすごく著名なアーティストをたくさん産んでいることと関係があるような気がします。死んだ状態のもの、必ずその「死」からまた「生」が生まれてくる、パワーが生まれてくるんじゃないのかなと思います。
:秩序のないものが、全体の中で逆に秩序があるんじゃないかな。とても美しいと思います。
:個人的には、美しいというのは、イコール「きれい」といえないでしょうか?だから美しいとは、私は思えないんですが。
津田:日本文化でも、「わび・さび」とかありますね。たとえば、岡倉天心の『茶の本』に、あるお寺の庭を掃除していて非常にきれいになってる。老僧が出てきて「これはけしからん」と一喝。そして木を揺すって、枯葉がばーっと庭に落ちて汚します。「これでよい」と。そういう話が出てきますけども、どこかに「秩序を逸脱したもの」を入れないと、秩序が本当に美しく見えない、逆説的なところがあるような気がしますが、そのへんで意見が分かれているのではないでしょうか?

アートとデザインの違い
田中:そのへんはアートとデザインの関係でもありますね。デザインは「する」もので、アートは「なる」もの、そういう感覚を私自身は持っています。デザインは、方向性、ゴールをきちんと決めて、そこへ向かって、まっすぐいく。ゴールからはみ出したものは価値がないものと基本的に見なす。アートっていうのは、つくる段階では、「する」と言うか、何かに向かっていくんですけど、そのつくる過程の中で、いろんな余計なものがまとわりついてきて、できあがったものには、意図から外れた部分がいっぱい見えてくる。つくる過程で最初には想定できなかったものを認めるというのがアートではないでしょうか。「汚しうる美」はアートなんです。アートとしての空間をつくっていきたいなと思っています。

ものをそれ自体として見れるか
4708139828_cc3f79b58a_b.jpg田中:私が建築を学んだアメリカのバッファローっていう町にはスクラップヤードがたくさんありました。そこには捨てられた物がだーっと集まっています。よく見ると、ベンツのボディなど高級な物から、格安の低級な物まで、全て重さで計れる存在に変わって積み上げられているんですね。
スクラップに目をやったときに、三つの見方があると思います。量として見るっていうことと、機能として見る、「そのもの」として見る。普通、バイクはバイクとして、テーブルはテーブルとして見るっていう機能がある。しかしスクラップヤードっていうのは、捨てられたものですから、基本的にはもう機能はない。だからこそ、存在そのものが見えてくるんです。
 捨てられたものなんですけど、私には、「かけがえのないもの」。そういう気持ちになれる空間なんです。1対1の関係性と言うか、私自身とその対象とが向き合っている。
津田 ドイツのハイデガーっていう人が『存在と時間』っていうすごい大著を書いて、「存在とは何か」と考えた画期的な本があります。その中で、「壊れたハンマー」っていうのが出てきます。それは機能してない存在。そして、先ほどおっしゃいましたように、怖い、不気味なものがある。その壊れたハンマーというのは「存在そのもの」じゃないかと。機能停止している、しかし、そこに、「存在の露呈」が行われているんじゃないかと。

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